冬ざれ

 「冬ざれの畑の中を友を見舞う ころがるキャベツされこうべのごと」

人生の中には「これは忘れてはいけない風景だ」というものがあるように思う。

「冬ざれ」という言葉からはいつもある景色が思い出される。収穫の終わった畑が続く道を北風に翻弄されながら憤りと無念さと悲しみを抱えて黙々と歩いたことがあった。16~17歳のころだったと思う。

 商品にならないキャベツがみすぼらしく投げ出された、風の吹きすさぶ畑の道は友を見舞う病院へ続く道だった。優秀で将来が期待される友だった。これからなんにでもなれる・・と夢や希望にあふれた年ごろなのに・・・土気色の顔、落ちてしまった視力で私たちを迎えた友だった。話で聞くよりも実際に会った方が衝撃は大きい。ただならぬ友の姿に愕然として一言も言葉が出なかった。

友の気持ち…というよりも、私自身が友の運命に憤りと無念と悲しみを抱いたのだ。

病院の帰りに見た畑に転がっていたキャベツが野ざらしの骸骨のように見えて心がキリキリと音を立てていた感覚は冬ざれのころになるとやってくる。その後の友は病癒えて仕事にもかなりの成果をあげたそうだが、やはり若くして逝ってしまったという。

初めて人生が無常であることに気づいたあの風景を絵でも文章でも表現することはできない。

納得いくまで毎年冬になると歌にするのではないかと思う。

誰そ彼

「せせらぎ」に投稿した短歌についてのメモ

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